ここでは父の生い立ちや甲子園の裏話のお話をします。整理ができたため再公開致します。
健は鳴尾村小曽根にあった武庫川女学校の近くで生まれ、実父は健が2歳の時に他界。母は花屋などをしながら女手一つで子育てをした。
10歳上の兄は父親代わりに健の面倒を見た。母は山に正月用のウラジロを取りに行き駅前で売るなどしていたようだ。
1939年9月1日に第二次世界大戦勃発。健が6歳の時である。鳴尾市場に空きが出たというので転居。市場に八百屋がないと聞き八百屋をする。店から土間を上がると住居のリビングで、急な階段を上がると寝室があるだけの小さい家だった。
1942年に入夫婚姻で新しい父がやってきた。新しい父は元々、沖仲士だったが実直で大人しい性格。店を潰したらあかんと八百屋を引き継いで母を助けた。その後、健の下に6つ下の養子の弟と8つ下の妹ができた。
一方、母は奈良桜井の三輪山に修行に通い霊能力を身につける。
「フルベユラユラ〜◯◯のミコト◯◯のミコト、かむろぎかむろぎを持って〜」と呪文を唱えたかと思うと急に声色が変わり、、
母「あんた誰や」
霊「ふん。わしはなぁ。どこそこの誰々じゃ」
母「あんたはな、ここにおったらあかん。帰って」
と一人二役の会話が始まる。白い紙のヒラヒラがついたサカキ葉を振って、「ふいっ」と息を吹きかけると霊が退散。
これを生業にしていたかは不明である。
戦争が進むに連れ貧困に拍車がかかり、家の裏でヤギ、ウサギ、アヒルを飼いアヒルが縁の下で卵を産んだらしい。食べ物がない時、動物は食料になった。
健は食い扶持を減らすために少年航空兵に志願した。少年航空兵とは徴兵でなく志願で採用されたが、特攻であることから兄にこっぴどく叱られた。幸か不幸か栄養失調ではねられ死を免れる。
最初は連戦連勝だった日本も徐々に戦況が厳しくなる。鳴尾村には甲子園浜に旧阪神パークがあったが川西航空機鳴尾製作所で作られた戦闘機を輸送するための滑走路に取って代わり、1945年にそれを目標に米軍が奇襲攻撃をかけてきた。
今でも甲子園浜の干潮時に滑走路の瓦礫や旧阪神パークの遺跡が顔を出す。海藻に覆われたライオンの顔の岩があるらしい。父と鳴尾川河口に釣りに行くと「昔はここに川西航空機の滑走路があったんや」とよく言われたが子どもの自分にはピンと来なかった。
健はある日、急降下してきた米軍の飛行機に狙撃され、ババババッと目の前に砂煙が上がり一目散に逃げた。これは敵国の飛行機が機内から機関銃で撃つ機銃掃射と呼ばれるもの。B29から落とされる焼夷弾のヒューーーーーっという音も「耳から離れない」といっていた。
母は栄養失調の健には特別に美味しいものを食べさせていたが、田舎なら食べ物があるだろうと丹波の親戚の家に縁故疎開させることにした。
疎開の時期は鳴尾村の空襲があった1945年頃じゃないかと想定する。健が12歳の頃だ。
丹波の親戚での扱いは子供心に酷かったと聞いている。窓際の寒い板張りで煎餅布団に寝かされた。
ある日、田舎の子供達と柏原(カイバラ)へ行こうと20円で汽車の片道切符を買い、遊びに行くも帰りの切符が買えず、山越えで歩いて家についたのは夜中。田舎は大騒ぎになっていた。「都会の子がそそのかした」と大人達は子供の健にキツくあたったらしい。
そうこうしているうちに1945年8月6日広島に、9日に長崎に原爆が落ち、日本はポツダム宣言を受け入れ同年8月15日に戦争が終結する。戦争が終わり、母から「イワシが浜に湧いてるから帰っておいで〜」と連絡が来て帰省。
それからというもの毎日浜に行ってたせいか身体の調子もだいぶ良くなった。ある日、大人が大きい魚を釣っているのを見て、近付くと餌を隠して見せない。来る日も来る日も陰からその釣りを見てチヌ釣りを学んだ。ニシンを袋に入れ野池に浸けておいて、キャッチボールをしてる間にスジエビがいっぱい取れた。竿は竹で、ラインは30cmぐらいの蚕の糸をつなぎ合わせたテグスと言われるのもの。大人がやってたようにエビをちびちび撒いてると直ぐに大きい魚がかかり一瞬でハリスを切られたらしい。
近所に竿師がいて中学生の父はチヌ釣りに魅了され弟子入りする。父が店の在庫の竹を使うもんだから奥さんは良い顔をしなかったが竿師は可愛がってくれたらしい。
竿師の紹介で健は、神戸の和田岬にある森下渡船に行き、先代の好意で和田防波堤に渡してもらい備中釣りの継承者となる。備中釣りとは神戸の和田防波堤だけに伝わるアケミ貝を使用した特殊な釣り。
時期はわからないが、父はよく神戸にあった「ちぐさや」という釣具店に出入りしていた話をしていた。そこも和竿を置いていた。
余談だが、晩年父は多発性骨髄腫でポートアイランドの神戸市民のICUから緩和ケア病棟に転院。いつでも駆けつけれるよう三宮にホテルをとっていたが死に際を看取れず。しかし最後は穏やかな顔でした。
病棟の個室から初めて外を眺めると海が見えた。よく見ると沖に一文字防波堤があり赤い灯台がある。これはまさに和田防波堤の赤灯台だと気づいた。最後の最後までここに縁があったのかと非常に驚かせられた出来事であった。
戦争が終結し、進駐軍が甲子園を占拠していてヤンキーがよくキャッチボールをしていた。カービン銃で撃たれそうになったこともあるが、基本的にヤンキーは親切で色んな物をくれたらしい。よく勉強の出来た兄と違い、健は野球しかやることが無かった。母は身体の弱かった健に一番良い物を食べさせていたので兄はそれが気に食わなかった。
鳴尾村誌の親父の証言によると、1945年の末、親父が中1の時、先輩達が鳴尾浜の海軍航空基地から野球道具一式を貰い受け翌年、3年上の先輩の日下隆氏を中心に野球部が創設され父は入部する。
親父の年代は学制改革で中学5年制から3年制に変わる最後の過渡期でした。
さて、甲子園の話だが、詳細は地元情報サイトの「第23回選抜高校野球大会準優勝の鳴尾高校野球部の記憶」を読んでいただきたい。
当時の鳴尾高校野球部は監督不在で、大会に出たときだけ臨時で監督を呼んでくるスタイル。それで通常は父が監督兼主将を務めていた。専門コーチがいなかったので、父は県立芦屋高校の古家武夫監督に苺を持参し教えを乞いに行った。古家監督は甲子園の夏の第一回大会で優勝し巨人へ入団した人であった。恐らくこの写真はその時の物だと思う。
チームはそこそこ強かったが、1948年、後援会の計らいでプロ野球選手にコーチの人選を依頼し平安中学校から森氏を招聘。
森コーチはバタバタと言われるバイクに乗ってきて風体は鬼軍曹。バイクの音がしたらみんな真剣に練習する。ベースランニングの周回を誤魔化そうにも森さんが石を積んで数えているため誤魔化せなかった。
森さんの口癖は「何しとんだーきさまわ!」だった。父はその森氏にめちゃくちゃ絞られたと言っていた。お陰で選手は疲弊しついに8連敗。後援会が見かねて森氏を首にしたらそこから息を吹き返し連戦連勝。ついには秋の県大会で優勝♪
鳴尾高校野球部はその1年前が1番強かったが、校長があまり力を入れてなかったことと、素行が悪く評判がよくなかった。当時は在日朝鮮人とのいざこざがあり、先輩がバットケースに日本刀を入れて殴り込みに行き、刀を抜いたら相手は蜘蛛の子散らすように逃げてったらしい。親父は、アイツラは泣いてからが強いねん、とよく言ってた。
親父は優勝は森さんのお陰だと、森氏にお礼を言いに会いに行くが、その時森氏は既に結核で他界していた。先が長くないことを承知で命懸けの指導であったことは間違いない。晩年父は医師より肺に結核が治った跡があると言われたらしく幼少期の栄養失調や学校を1年休学し療養していた時期に結核に感染していたのかもしれない。
1951年、第23回センバツ高校野球大会。甲子園の初戦。地元鳴尾村は凄い盛り上がり。しかし、母は「野球は負ける方が可哀想やから好きじゃない」と言って応援に来なかった。この試合、野武貞次がノーヒットノーランを記録する。ネットでは野武をノタケと紹介されている。
野武投手はセ・リーグの審判員となり1966年1月に逝去。享年32。
鳴尾の霊園に祖父の墓があり、その帰りに父がいつも立ち寄って水を上げていた立派な墓があり、まだ小さかった私が誰?と聞くとノブテイジや。と言ってたのでノタケでなくノブが正解だと思う。
鳴尾村誌における座談会で山田清三郎氏(捕手)によると前年のジェーン台風の片付けでノブ氏が肩を壊し全く投げていないのに1回戦で阪東監督がノブを起用。(阪東監督は甲子園の時だけ召喚された臨時監督、普段は河合野球部長がいたが野球は素人であった)これまでの剛速球が投げれずベース手前で失速しそれがシンカーの様になりノーヒットノーランが達成できたようだ。
話は戻り、甲子園初出場の初戦に鳴尾高校の応援団長が象にまたがりアルプススタンドの外野通路から球場に入ってきた。
親父にその時のことを聞いた。
健「アイツは九州から来たやつや。わしらは全然知らんかった。」
私「球場に後から怒られたらしいで」
健「そうかぁ?それは知らんな」
親父は野球部のボス。当時素行の悪かった鳴高の番長を呼びつけて雑巾で顔を拭いて、行け!と言って黙らせたくらい野球部の威光は強かった。
自分は打たずにチームのみんなを優先的に打撃練習をさせる程の親分肌。重要なのは皆を優勝に導くことで象には興味なかったようだ。応援団長は全くのサプライズで象を連れてきたので本人に聞く以外新しいエピソードは出てこないだろう。
ちなみに親父は部費の調達役もしていたが学校から支給される部費の殆どが野球部に支給されていた。
鳴尾村誌の座談会で中田昌宏投手も、選手は試合前の練習後でベンチにいて誰も象を見ていないので数分の出来事だったようだと証言しています。
ですのでトリビアの泉で取り上げられたように「象が甲子園球場を周り、選手と記念撮影した」などは無かったと思われます。恐らく入場し直ぐに退場させられた感じですね。
それでも九州男児の高橋督佳応援団長の男気には敬服しますし、戦争を経て1950年に甲子園で復活した阪神パークが同年にタイから空輸した目玉のアジア象を全国的にアピールしたかったのではないか?と推測します。
世間は、高校生といえばスポーツマンシップにのっとり品行方正なイメージだが、、、
元々甲子園球場には宿泊施設があり鳴尾の選手は球場に泊まっていた。食事は甲子園ホテルが作るから1流。しかし甲子園球場は窓が片方にしかなく空気の循環が悪かった。雨に祟られたことも影響してか「空気悪いなぁ」と言うことで夕立荘に引っ越し。夕立荘はオバチャンが切り盛りしてて随分お世話になったらしい。
夕立荘には3日間雨で缶詰めになり、選手は油でグラブの手入れ、バットに油を塗り牛の骨で擦る等をしていたが、選手はコンディションや集中力の維持が大変だったよう。午前中は素振りやランニングなどの練習、午後は気分転換に家に帰らせたりもしていたようだ。合宿所には激励に同行生徒が押し寄せたが河合野球部長が汗だくで応対しお断り。植杉校長だけが日参し激励していた。
余談だが私が関西学院中学部で野球部だったとき、親父が私のグローブに天ぷら油を塗りグラブが真っ黒になりショックを受けた😣覚えがある。もしかしたら当時もドロースの代わりに天ぷら油を塗ってた可能性もある。
甲子園での試合は順調に勝ち進み、内野でボール回ししながら「今日は客の入り悪いなぁ〜」とおよそ高校生らしからぬプロの選手のような会話が飛び交った。
甲子園出場により日に日にファンレターが増え、カメラマンからブロマイドのような写真を撮ってもらいサインを裏書きしファンに配った。しかし一度も返信しないし、周りの取り巻きの相手もしないからみんな去っていったと後で後悔してました。
優勝戦は鳴門との戦い。9回裏2アウトまで勝ってたが、最後に味方の牽制球のエラーで失点。鳴門に優勝をさらわれる。言い訳になるが、当時親父は主将兼監督で野球部の部費の調達もしていた。硬式ボールは1個600円しバットより高く貴重でファールを打つとバックネットが低いからよく田んぼに落ちボールが濡れるなどがあった。それで親父は選手に打撃練習をさせて自分は打たなかったため甲子園では調子が出なかったらしい。
私の時代1978年でさえ阪急ブレーブスのお古のボールを貰い2本針で綻びを縫い合わせ、修復しながら使ったのだから終戦後の1951年なら推して知るべしである。
優勝戦は妹を連れ母が応援に来た。妹は小学生でまだ小さく、アルプス席に選手が整列して挨拶に来たのを覚えてるくらいで象の事は覚えてなかったらしい。
敗戦後、選手達は甲子園球場から西宮市のゴミ収集車に乗り、西宮市警サイドカーを先頭に毎日新聞社ニュースカーの軽快な音楽と共に沿道を埋めるファンの万雷の拍手を浴び、鳴尾村や夕立荘前をパレード。選手達はめちゃくちゃ寒かったようだ。
みんなうなだれてて、泣きじゃくる子もいたが、準優勝旗を持った健は最後まで涙をこらえた。ところが実家に帰ったとき、兄に「なんや負けたんかい」と言われ、我慢してた涙が溢れ出て、トイレの壁に大穴を開けた。兄にしてみりゃ健だけ美味いもの食って結局負けたのかと言いたかった。
健は勉強では兄貴に負けてたから野球では自信があっただけに相当悔しかったようだ。誤解のないようにように少しフォローさせて頂くと、健の兄は思った事がすぐ口に出るタイプの人で、悪気はなく、そもそも兄は常に健の面倒を見てたし二人の仲は基本的には良かった。
鳴尾村は1951年4月1日に西宮市に編入され消滅する。この写真は4/9に準優勝報告に役場に行って撮影されてるようなので、恐らく鳴尾村役場最後の貴重な写真だろう。向かって左端、後ろ手に笑顔なのが健。敗戦で落ち込んでいたがこの時は笑顔なのが嬉しい。中央の背の高い眼鏡の人は辰馬夘一郎西宮市長、その向かって左が井上鳴尾村村長さん。
これも余談だが、選抜三日目第四試合、投手中田が熊本商のショート平田君の頭にデッドボールを当て病院送りに。翌日決勝戦進出が決まったが試合後に、「先ずは平田君を見舞おう」とナインが衆議一決。健、河合野球部長、植杉校長、上山PTA会長、岡田後援会副会長、佐伯大会副会長が同席し百合の花束を持ち平田君を見舞った。平田君は熱い友情に感激し、「明日もがんばってください」と健に激励。
高校球児らしいし親父らしい微笑ましいニュースだ。
親父の遺品に謎の甲子園記念品がある。
①第29回選抜高校野球大会記念章。これは王貞治が早稲田から投手として甲子園に出た時の物。
②何も書いてないカップ。これは第23回選抜高校野球大会で準優勝したときのものと同じ。
③昭和31年秋季高校野球大会のバックル。
健は高校卒業後、野球で関西学院大学に入る予定で、関学大野球部の練習にも参加してた。ところが間に入ってくれてた人の手違いで入学が流れた。
結局、行くアテもなくなった父は卒業後何年かして鳴尾高校野球部の監督に招かれる。親父が持ってるこれらの記念品は監督時代に手にしたものだと思う。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
七年の介護で今でも親父の死は悲しく高校時代の心の傷をずっと引きずっていたことを知り胸が痛いです。認知症の進行を遅らせるためちょこちょこ昔話を聞き出していて、時系列に並べるのには苦労しましたがここにこうしてまとめることができ色々な御協力者の方々には大変感謝しております。
後から色んな資料が出てきて後付で記事を追加しまとまりがなくダラダラとお見苦しい文章になりました。
「甲子園に象を連れてきた学校がある」というエピソードだけでは、実にほのぼのとした時代だったんだなあという印象。しかし、野球をしていた当の本人達は戦争や貧困を経験し様々な苦悩や葛藤の中、歯を食いしばって生きてきたんだというお話しでした。