甲子園写真

※当方が所有している写真アルバムです。
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⬆0 ※元々甲子園浜にあった阪神パーク。戦争を経て1950年、甲子園の地で新たに再開する。同年に象を空輸しパークの目玉とする。翌年23勝4敗3分で球歴6年の鳴尾高校が兵庫工高を引き離し晴れの出場校となる。地元は大盛り上がりで連日の壮行会。その初陣の初戦、羽織袴に赤襷の出で立ちでアルプススタンドの外野通路から阪神パークの象に跨り鳴尾高校の応援団長が現れた。

鳴尾高校が甲子園で準優勝

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1951年 第23回選抜高等学校野球大会 表彰式
(AIでカラー化、前列右から3人目は井上鳴尾村村長)

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鳴尾高校が甲子園で準優勝

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毎日新聞社長より準優勝旗を受け取る鳴尾高校の主将、濱崎健君。(AIでカラー化)

⬆④甲子園球場100年の歴史の中で内野席に屋根(鉄傘、銀傘)がないのは1943/8/6~1951/7/31までの述べにしてわずか8年間。その時の貴重な写真。1951年春のセンバツ表彰式にて毎日新聞社長の挨拶。

⬆⑤毎日新聞社長より準優勝メダルを授与される濱崎健。

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⬆⑧静岡城内高との試合前、雨で観客席に傘が見える。象の写真でも観客席は傘をさしている。象の入場時はみんなダッグアウトの中にいて選手は誰も象を見ていない(←中田投手談)象が入場し出ていったのは数分のことで象が場内を一周し選手と撮影とかはなかった。(濱崎主将談→)試合後に新聞で象に乗っていたのが高橋応援団長と知った。

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⬆⑩よくぞやった鳴尾高、破れて悔いなきその敢闘。7万余りの絶賛を背に激闘の思い出深い甲子園球場に脱帽、敬礼を行った。

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甲子園球場から夕立荘に宿を移した鳴尾高校

夕立荘

⬆⑮西宮のゴミ収集車でパレード。甲子園球場からトラックに載せられて毎日新聞支社や夕立荘、鳴尾村をぐるぐる回ったため非常に寒かったらしい。まあ4月初旬桜の時期ですからね。

⬆⑯準優勝報告で下を向く選手たち。9回裏2アウトまで勝っててからの悪夢の牽制悪送球での逆転負け。主将だから泣けないと最後まで涙をこらえていた健であったが、帰宅後兄に「なんや負けたんかい」と言われ壁に大穴をあける。

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⬆⑲うつむくナイン。後輩は自分達は来年もあるがこれで終わる先輩達に申し訳ないという気持ちもあったようだ。

鳴尾村

⬆⑳鳴尾村は前年のジェーン台風の被害、鳴尾競輪場事件などによる財政難で1951年4月1日に西宮市に編入され消滅した。この写真は4/9に準優勝報告に役場に行って撮影されてるようなので恐らく鳴尾村役場最後の貴重な写真だろう。

向かって左端、後ろ手に笑顔なのが健。敗戦で落ち込んでいたがこの時は笑顔なのが嬉しい。中央の背の高い人は西宮市長 辰馬夘一郎氏、その左が井上村長。

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⬆㉒健が中学1年の時、村立鳴尾中学校は5年制で先輩が鳴尾浜の海軍航空隊基地より野球道具一式を借りてきて、3年上の日下隆君を中心に野球部が創設された。

⬆㉓普段は監督が不在だった鳴尾高。監督代わりだった健は甲子園出場経験のある芦屋高校の古家武夫監督に苺を持参して教えを乞うた。

⬆㉔プロのカメラマンに撮影してもらいサインを裏書きしてファンに配った写真。後にファンから送られてきた。AIでカラー化しました。

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⬆㉗後に巨人軍の正捕手となった後輩の藤尾茂氏と健。健と藤尾氏と中田氏は家が近く毎日深夜に武庫川で走ったそうです。そういう努力があってこその甲子園ですね~。

⬆今は亡き主将 濱崎健と三塁手 藤尾茂氏。生成AIで動画化。

⬆㉘

⬆㉙健が高校卒業後、鳴尾高校野球部の監督をしていた時代にもらったと思われる記念品。王貞治が選抜に出た時の物もあり何故父が持ってるのか?他校の監督もしていたのか?今となってはわからない。

⬆㉚1951年選抜、準優勝カップ、バックル。カップには『贈 一塁手 浜崎 健君』と記載されている。

⬆㉛1951年選抜、準優勝メダル。「お前が持っとけ」と渡されたナポレオンのお酒の箱。この中に甲子園関連のメダルなどが入っていた。70年も前の物ゆえリボンとメダルがバラバラになり原型をとどめていなかった。写真を見ながら根気よく修復した。

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