第3話 1971年 武庫川河口貯木場のボラ掛け

2024年06月29日 07:08

※出典:にしのみやデジタル・アーカイブ

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伊丹の家のベランダには竹竿を製作する道具があった。竹の節を抜く鉄棒。竹の内側を削る耳掻きの様な鉄棒、竿を溜めて曲がりを直す木、カシュー塗料。親父は二段ベッドをDIYもしていたが、圧巻は竹製のボラ竿を2本製作していた。

竹といっても手元の直径は10cm以上ある太くて長い竿だ。それを並継竿にして緑色に塗った帆布の竿袋にいれていた。穂先は上に反り返るように火で炙り反りを入れていた。何故なら穂先をユラユラ揺らしてあたりを取る釣りだから真っ直ぐのままだと穂先がダランと下がってしまうから。

1973年当時でも竹のボラ竿を持ってる人は少なくグラスロッドかカーボンか定かではないが市販の竿でやってる爺さん達が多かった。

親父に「1本30万ぐらいで受注生産したら売れるで」とそそのかしたが「竹がもう無いやろな」と言ってました。それもそのはず何十本と採ってきて1年乾かして使えるのは1本あるかないか。竹やぶの隣にでも工房がないと不可能です。

神戸女学院に岡田山の土地を寄付したのが家内の実家で、女学院の近くに竹藪を持っててよくタケノコ採取に行ったが、今思えばあそこで小屋を建ててボラ竿の制作ができたなあと。

ボラ竿は長くて重いため通常の竿のように持つのが不可能なためU字型の鉄の棒にガスのホースを装着し支点とし、竿の手尻に岩をくくりつけバランスをとった。支点となる鉄の棒は道具箱兼イスの黒い木箱に刺してそこに座りながら調子を取った。穂先には見やすいように赤や白(逆光で色を変える)🎀を結んでた。

ボラという魚は色が識別できるほど目が良く、岸辺を歩く人影だけでパッと音を立てて逃げます。魚の中でも視力は断トツでしょう。冬場、ボラの目の周りにゼラチン状の膜ができ視力が落ちます。そこで針金に中通しオモリと真珠を通し、赤、黄、青、オレンジなどのゴム風船を短冊に切ったものをくくりつけて、その下に3本碇の掛バリをつけ、それを海底でヒラヒラさせて食わすのです。

ボラ掛けを引っ掛け釣りと呼ぶ人は、やった事ない人でしょう。ボラはゴムのヒラヒラを口で吸い込んで引っ張るんです。そのあたりを取り掛け合わせる。だから食わせ釣りなんです。明らかにギャング釣りとは異なる高尚な釣りです。鮎釣りを引っ掛け釣りとは呼ばないのは向こう合わせだからでしょうが、理屈はそんな変わらない。

このゴムのヒラヒラにセイゴの皮を挟むと匂いと光沢と味で釣果が上がりました。正月の雑煮の出汁にハゼを釣ってきて干すのと、セイゴの皮を干すのをよくやってました。

ボラの釣り方として、貯木場の足元が石畳の場合は道具箱に座ってやるのですが、川の方のテトラでは竿に木の板をくくりつけてそれを支点にやってましたね。テトラの湾曲に沿うような台座を作りその上に椅子を置いてやることも。ボラが掛かれば張り巡らしたネットの中に振り上げます。ネットがないと石畳の隙間に落ちるんです。掛バリは返しがないのですぐ外れます。

アワセは脇に竿尻を抱え、穂先をユラユラさせ、穂先の押さえ込みがあった場合に竿尻をグイッと下に下げるとテコの原理で穂先側が上がり合わせが効きます。そのまま竿を持ち上げぶり上げるんですが、トドクラスの大物になると上がらない上がらない。その豪快な釣りは他の釣りの追随を許さない面白みです。

しかし手尻に頭大の岩がくくりつけてあり竿は重くボラがでかいとなると小学生の腕力では上がりませんでした。その時は親父が助太刀に来てくれます。真冬の1月2月、完璧な防寒具で手はかじかみますが一匹かけるとやめられません。大体2人で二桁掛けました。

自転車に竿、木箱、ボラを積み伊丹まで武庫川沿いを帰ります。のんびりした時代です。寒ボラですので刺し身で食べます。鯛と区別がつきません。卵は鯛の子のように甘辛く煮付けで。絶品です。

鳴尾川河口でやった事もあるが、エラに寄生虫がへばりついてて気持ち悪く、やはり貯木場のボラの方がキレイでした。恐らくいまでも芦屋の宮川の河口やキャナル・パークでやれば掛かるはずです。あらゆる釣りを教わりましたが醍醐味という点でこの竹竿によるボラ掛けが好きな釣りランキングナンバーワンです。

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